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研究目的


研究目的

 本研究は、1990年代の日本社会について、思想や言説という側面から分析を試みる。すなわち、この時期の日本社会についての実体的分析よりは、むしろ何が、どう議論され、あるいは議論されなかったかを検討の対象とする。

 90年代の日本の思想と言説の展開を理解する上では、その前提として以下の諸変化を考慮に入れる必要がある。

1)国際環境の変化とその影響

  冷戦の終了は、日本をめぐる国際環境を大きく変化させた。まず、日本の国際社会における位置の動揺に伴い、日本の自己イメージの再検討が促されることとなった。また、湾岸戦争の勃発は、自衛隊の海外派遣問題をきっかけに、憲法第9条問題、地域安全保障、国際社会への日本の貢献をめぐる議論を活発化させた。さらには、日本とアジアの関係も大きくクローズアップされ、戦後補償、従軍慰安婦、歴史教科書検定問題等に関心が集まった。その結果、日本のナショナル・アイデンティティの見直しの気運が高まり、これまで見失われがちであったアジアからの視点への反省を生むと同時に、靖国神社問題や「新しい教科書」をめぐる新しいナショナリズムの動きも引き起こした。

2)国内的変容とその影響

   米ソ対立を前提に形成されたイデオロギー対立や政党構造もまた、前提条件の消滅とともに崩壊へと向かうこととなった。この時期、バブル経済の崩壊もあって、「1955年体制」と呼ばれた政治体制のみならず、「日本型システム」と呼ばれた資本・経営・労働をめぐる一連の枠組みそのものの全面的な危機が叫ばれるようになった。このことは、長きにわたって自明視され続けた、日本における組織のあり方の再検討へとつながった。

  このような内外の変化を受けた90年代の思想や言説は、「戦後」そのものの検討を課題とすることとなった。今日動揺しつつある制度的・精神的枠組みは、いつ、どのように形成されたのか。現在動揺しているのは、「戦後」の枠組みのいかなる部分なのか。今後、この枠組みのいかなる部分を変革し、また維持していくべきなのか。今日、問われているのは、単に冷戦終了による変容だけではなく、それを前提として形成され維持されてきた「戦後」そのものである。

  以上のような問題意識を前提に、本プロジェクトは特に、戦後日本における社会科学の展開と公共性をめぐる議論に焦点をあてる。戦後思想とは、戦争経験をいかに受け止め、思想化するかを課題とする知的営みであったとすれば、社会科学はまさしくその中核の一端を担うものであった。その際に、日本の戦後社会科学が課題としたのは、戦争の惨禍を引き起こした日本ファシズムの分析と同時に、新たなる公共性の原理、具体的には主体的個人から成る市民社会の探究であった。それは国体思想に代わる、新たな社会的連帯の原理と個人をめぐるモラルの模索でもあった。

  しかしながら、戦争終了から半世紀以上の時がたち、戦争経験の記憶が遠いものになるにつれて、戦後思想や社会科学もまた変容を余儀なくされた。戦後直後の時期と55年体制確立以後の時期との違いと同様、70年安保の前と後との変化も著しい。その結果、70年代以後の議論は、戦後前期のものとは相当に異なった言説によってなされた可能性が高い。90年代の思想は、そのような変化の結果でもある。戦後思想や社会科学もその例外ではなく、90年代に根本的な再検討を受けることとなった。このことは公共性をめぐる議論の変化とも連動している。日本の戦後社会科学が新しい公共性の建設を課題としていたように、今日の社会科学の再検討は、公共性の捉え方の変容と密接不可分につながっている。現在、日本において「公」をめぐる議論は活発であるが、その理解はむしろ焦点がぼやけ、思わぬ方向に突出することも珍しくない。この背景には、元々「公」をめぐる明確なイメージが長い「戦後」の期間中に見失われがちであったところに、今日教育基本法をめぐる見直しが「公への奉仕」という論点を提起し、さらに経済的な民営化や「自己責任」をめぐる議論が、新たな「公」定義を促したことがある。

  また、新たな公共性の模索は、戦後社会科学の一つの理論的課題であった市民社会論に新しい光を与えている。戦後社会科学の担い手たちにとって、主体的諸個人から構成されるものとして構想された市民社会は、今日、国家と市場との関係の変化、NGOやNPOをはじめとする新しい社会運動の発展、情報やメディアの技術進歩に基づく新しいネットワークの出現といった諸要因によって、新たな展開局面に差しかかっている。

  本研究では、戦後日本の社会科学と公共性をめぐる議論の再検討を基にして、90年代の思想と言説の変化とその意味を探っていきたい。21世紀の新たな展望を切り開くための、現時点での議論の状況を反省的に総括するのが目的である。

研究計画

 本研究においては、90年代の思想や言説をリードすることとなった、著作、いわゆる「総合雑誌」をはじめとする定期刊行物、新聞、さらにはインターネット上のサイトを含む活字メディアを主たる検討対象とする。まずは、情報と議論の整理からスタートし、その上で90年代の思想と言説の見取り図を批判的に再構成していく。主要な論点として、次のような問題に取り組む。

   (1)ナショナル・アイデンティティの行方
   (2)対アジア関係と地域国際秩序構想
   (3)社会科学の展開(戦後政治学を中心に)
   (4)市民社会論の変容
   (5)憲法問題
   (6)戦争責任論
   (7)教育

 2003年度には、上記の予備作業とともに、メンバー間の問題意識の擦り合わせを行っていく。予算的に可能であれば、メンバー以外に内外の研究者を招き、シンポジウムも行いたい。2004年度以降は、『社会科学研究』の特集号その他において、研究成果の発表を目指す。